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東浩紀の「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」をゲンロン12で読んだ。ポパーの開かれた社会vs家族は実は閉じておらず訂正可能性がありその意味で観光客とつながる。その論に用いられたウィトゲンシュタイン/クリプキでの固有名詞と確定記述、そしてアーレントの公共性は活動=開放性だけでなく制作=持続性によって可能となる。その活動は誰が問われる=固有名詞、制作(および労働)は何=確定記述の束ときた。これはその前に置かれた宇野重規との対談で「リベラルは自分たちこそ開かれていると信じているけれども、実は明らかに閉じている」という批判につながる

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