今朝の朝日「耕論」:黒瀬陽平「観客が作品を通して問題の内部に入り込み、感じ、考えるための仕掛けが必要」「見る側の想像力をふくらませ、もともとあったはずの分断を乗り越えていける『動線』が引かれていないといけない。」宮台真司「自由な表現としてのアートは…『社会の外』を示すものとして成立」し「体験後に日常の価値に戻れないよう『心に傷をつける』営み」だが、税金が使われて公共の場で展示されるパブリックアートでは「住民や政治家が文句をつけ得る…『心に傷をつける』非日常的作品には抗議しがち。アートとパブリックのねじれです」

トリエンナーレでは、来観者が作品を見ただけでは何だかさっぱり分からず、係の人に質問して「こういうの俺たちには分かんないよ」と苦笑する場面に一度ならず遭遇した。ビデオアート系は動きに合わせて鑑賞者も考える可能性があるが、インスタレーション系は、黒瀬の言う「動線」も含め、もう少し工夫がないと「対話」が難しいものが多いように感じた。宮台は「今後の地域芸術祭を成立させるには観客教育が必須」で「アートの『心を傷つける』本質を伝える」のだと言うが、レトリックとしてはともかく、それにはやはり動線が必要では

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少女像を「キッタネー」と評した貞本義行は、「現代アートに求められる」のは「面白さ!美しさ!驚き!心地よさ!知的刺激性」と言い放って、不快感/違和感も含めた「対話」あるいは化学反応の喚起という視点が抜け落ちている点で、残念と言われても仕方ない。逆に作品の「モデルや作者の(気の毒な)背景」に基づく貞本批判は、普通に考えて的外れではあるものの、コンテクストや動線の過剰(展示以前の環境も含め)は恣意的なストーリーにつながる危険もあるわけだな

Artists Demand Removal of Work from Aichi Trienniale Following Censorship Controversy artnews.com/2019/08/13/aichi-t 重要な参加アーティストたちが「表現の不自由展・その後」が再開されるまで自分たちの作品公開を中止するように要請。《トリエンナーレ関係者および来観者の精神的、物理的安全は確保されなければならないが、表現の自由はどんなコンテクストにも関わらず守られる必要がある。脅迫に屈したことは表現の自由を損なうものであり、アーティスト、キュレーターほか特別展関係者との協議なしに展示を中止したことに疑義を表明する。これがリスクマネジメントであって検閲ではないという見解には全く同意できない》

「憲法学者が考える不自由展中止 自由を制約したのは誰か」朝日、問題点が整理されている。明日の朝刊かな。「<誰の>表現の自由が、<いつ><誰によって><何を理由として><どのように>制約されたのか」<誰の>は1.作者、2.実行委員会、3.観客、4.社会全体だが、1~3は法的に難あり、4も個人に還元できず。「(圧力から展示を守るべき立場の)芸術監督自身が実行委員会と一体となって中止の判断をしたことが、今回の問題」「専門職の自律的判断に任せれば表現の自由の侵害から芸術が守られる、という議論の前提が崩れている」慶応横大教授へのインタビュー

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