トリエンナーレでは、来観者が作品を見ただけでは何だかさっぱり分からず、係の人に質問して「こういうの俺たちには分かんないよ」と苦笑する場面に一度ならず遭遇した。ビデオアート系は動きに合わせて鑑賞者も考える可能性があるが、インスタレーション系は、黒瀬の言う「動線」も含め、もう少し工夫がないと「対話」が難しいものが多いように感じた。宮台は「今後の地域芸術祭を成立させるには観客教育が必須」で「アートの『心を傷つける』本質を伝える」のだと言うが、レトリックとしてはともかく、それにはやはり動線が必要では
Artists Demand Removal of Work from Aichi Trienniale Following Censorship Controversy http://www.artnews.com/2019/08/13/aichi-triennale-2019-work-removal/ 重要な参加アーティストたちが「表現の不自由展・その後」が再開されるまで自分たちの作品公開を中止するように要請。《トリエンナーレ関係者および来観者の精神的、物理的安全は確保されなければならないが、表現の自由はどんなコンテクストにも関わらず守られる必要がある。脅迫に屈したことは表現の自由を損なうものであり、アーティスト、キュレーターほか特別展関係者との協議なしに展示を中止したことに疑義を表明する。これがリスクマネジメントであって検閲ではないという見解には全く同意できない》
少女像を「キッタネー」と評した貞本義行は、「現代アートに求められる」のは「面白さ!美しさ!驚き!心地よさ!知的刺激性」と言い放って、不快感/違和感も含めた「対話」あるいは化学反応の喚起という視点が抜け落ちている点で、残念と言われても仕方ない。逆に作品の「モデルや作者の(気の毒な)背景」に基づく貞本批判は、普通に考えて的外れではあるものの、コンテクストや動線の過剰(展示以前の環境も含め)は恣意的なストーリーにつながる危険もあるわけだな